Masuk◇◇ Side 恒一
澪が家を出たことに気づいたのは、その日の夜だった。
正確に言えば、朝から姿を見ていないことには気づいていた。 だが、どうせ少し頭を冷やせば戻ってくると思っていたのだ。
「まだ帰ってないの?」
リビングのソファに座った美咲が、不安そうに俺を見上げる。
「放っておけばいい」
そう答えながら、スマートフォンをテーブルの上へと置いた。
連絡はないが、もちろんこちらから連絡するつもりもなかった。
昨日から澪の態度は明らかにおかしかった。
美咲がこの家に来たことが気に入らないのだろう。
昔から美咲を疎んでいたと聞いていたが、まさか食事にまで細工するとは思わなかった。
一度くらい痛い目を見たほうがいい。
自分がどれほど恵まれた立場にいるのか、少しは理解するだろう。
「でも……お姉さん、私が来たから怒ってるんだよね」
「美咲のせいじゃ
俺はすぐに義父へ電話をかけた。「澪から離婚の通知が来ました」『なんだと?』 電話の向こうで声が荒くなる。きっとそんなことを想像もしていなかったのだろう。「弁護士を立てています」 事務所名を告げると、しばらく沈黙があった。『澪がそこに依頼したのか?』「そう書いてあります」『馬鹿な……』 義父の声が明らかに変わった。俺と同じ考えだったのだろう。あまりにも大手過ぎる。『そこは金だけ積めば、突然の個人案件をすぐに引き受けるような事務所じゃない』 あの澪に誰が手を貸した?澪を匿い、弁護士まで用意した人間が。「居場所を調べます」『待て。勝手なことをするな』「ですが、このままでは――」 俺を制止すると、義父が歯ぎしりをする音が聞こえた。その不快な音に、俺は表情をゆがめるがそれは見えないから問題ないだろう。『澪には何もできん。金も自由に使えないようにしてある。お前も澪のカードを全部止めろ』 その言葉に、俺は言葉を捜した。俺のカードなど澪には渡していない。
◇◇ Side 恒一 澪が家を出たことに気づいたのは、その日の夜だった。 正確に言えば、朝から姿を見ていないことには気づいていた。 だが、どうせ少し頭を冷やせば戻ってくると思っていたのだ。「まだ帰ってないの?」 リビングのソファに座った美咲が、不安そうに俺を見上げる。「放っておけばいい」 そう答えながら、スマートフォンをテーブルの上へと置いた。 連絡はないが、もちろんこちらから連絡するつもりもなかった。 昨日から澪の態度は明らかにおかしかった。 美咲がこの家に来たことが気に入らないのだろう。 昔から美咲を疎んでいたと聞いていたが、まさか食事にまで細工するとは思わなかった。 一度くらい痛い目を見たほうがいい。 自分がどれほど恵まれた立場にいるのか、少しは理解するだろう。「でも……お姉さん、私が来たから怒ってるんだよね」「美咲のせいじゃない」「でも……」 俯いた美咲の頭を軽く撫でる。昔からそうだった。美咲はいつも周りを気遣う。 自分が我慢すればいいと言って、何でも飲み込もうとする。 それに比べて澪は――。 そこまで考えたところで、ふと違和感を覚えた。 朝食のあと、澪はどこへ行くとも言わなかった。 いつもなら、出かけるときには必ず俺に伝えていたはずだ。 夕食の時間になっても戻らないことなど、この一年、一度もなかった。 だから何だというのだ。少しぐらい自分の立場をわからせるべきだ。そう思った俺だったが、ふと腕に触れた美咲の手で我に返る。「電話してみたら?」「いや、行くところもないんだ、帰ってくるだろう。甘やかすわけにはいかない」 そう言い捨てると、美咲は泣きそうな顔をする。「でも、お姉さんに何かあったら、私……」 美咲に言われ、仕方なく澪の番号を表示する。 数回の呼び出し音がするが、し
「考え直した」「……はあ」「お前が、そんな男たちのために不貞を働く必要はない」「でも、それでは離婚したいと言っても――」「できる」短い一言に、続く言葉を失う。助けを求めるように隣の弁護士を見る。久我先生は分厚いファイルを開きながら、静かに話し始めた。「まず、ご主人からの身体的DVの件ですが」頬にそっと手を当てる。腫れは引いていたが、皮膚の下にまだ鈍い痛みが残っていた。「……一度だけです。殴られたのは」「一度でも暴力は暴力です。立派な離婚事由になります。それから、血の繋がらない異母妹を自宅に住まわせ、夫の寝室で寝泊まりさせているという同居環境についても」「はい。でも、それが本当に離婚理由になるのかは……」「調べればいいだけの話だ」部長が遮った。「それと、父から継いだはずの財産のことも、根本から確認する必要がある。名義は自分のものだと言っていたが、正確な内容や通帳の在り処を、お前は今、把握しているのか」核心を突かれ、言葉が出なかった。母が亡くなり、相続の説明を受けたはずだった。でもその隣にはいつも父がいて、私が質問しようとするたびに割って入り、代わりに答えた。渡された書類に、言われるまま署名と捺印を重ねただけだった。思い返せば、あちこちに不自然な空白がある。「……あまり、わかっていません」正直に言うと、部長の表情がさらに険しくなった。「やっぱりか」そう呟いて、久我先生に目を向ける。「実家側が隠している財産も含めて、すべて洗ってくれ。向こうの顧問弁護士には、こちらの名前を出すな」「承知いたしました」現実が、私の意思とは無関係なところで動き始めている。「ちょっと待ってください」思わず声が出た。二人の視線がこちらを向く。「こんな大がかりなこと、費用はどうなるんですか。私、払えるかどうか……」蓄えがまったくないわけではない。でも夫に
目を開けると、カーテンの隙間から光が差し込んでいた。見覚えのない天井。やけに広いベッド。頭の芯がまだ痺れていて、状況を理解するのに数秒かかった。そうだ、昨夜、私はすべてを置いてあの家を出た。 そして、小松部長と――。「不倫……」声に出した途端、昨夜の熱が急速に冷めていく。何を考えていたんだろう、私は。あの結婚生活から抜け出したかった。慰謝料を請求されても構わない、そのつもりでいた。でも、だからといって部長を巻き込んでいい理由にはならない。しかも彼には婚約者がいるはずだった。跳ね起きるように上体を起こす。どうして昨夜、あの場で確かめなかったんだろう。酔っていたとはいえ、あまりにも軽率だった。「断らなきゃ。こんな関係、今すぐ終わらせないと」震える手でスマートフォンに伸ばしかけたとき、インターホンが鳴った。こんな時間に誰だろう。ルームサービスか清掃か、そう思いながら壁のモニターを覗き込んで、私は固まった。「……部長?」声が裏返った。慌ててロックを開ける。「おはようございます」穏やかにそう言った部長の背後に、見知らぬ初老の男性が立っていた。五十代半ばだろうか。仕立てのいいダークスーツに、重そうな革の鞄。「入ってもいいか」「あ……はい、どうぞ」わけもわからないまま二人をリビングへ通す。ソファに腰を下ろした男性が、名刺を差し出してきた。個人名より先に、大手法律事務所の名前が目に入る。「弁護士の久我と申します。小松さんから、昨夜のうちに大まかな事情は伺っております」「弁護士……ですか」隣に立つ部長を見上げる。彼が弁護士を用意すると言っていたのは覚えている。でも、翌朝いきなり本物を連れてくるとは思っていなかった。「あの、その前に部長」「なんだ」「昨日の話なんですけど」言葉が喉に詰まる。それでも、言わなければ後悔する。「やっぱり、不倫なんてやめにしましょう」部長の眉がわずかに動いた。「私が言い出したことなのに、こんなことを言ってすみません。でも部長には、結婚を誓った方が――」「いない」「え……?」「婚約者は、もういない」言葉が出てこない。「でも、会社にいたときは、お似合いの人がいるって……」「破談になった。それだけだ」まるで天気の話でもするような口調だった。これ以上踏み込んでいいのかもわからない。「それでも、
そのあと、何を話したのかよく覚えていなかった。どうして部長はこんなことに協力してくれるのか、どうして再会してしまったのか。そんなことを考えればきりがないが、私にとっては奇跡のようなことだ。無理やり結婚をさせられ、夫は義妹と愛人関係にあり、それをあっせんする父。もしかしたら、命すら狙われる可能性もある。そこまで腐っていないと思いたいが……。「どうした? やっぱりやめるか?」その問いに、私はハッとして顔を上げた。部長はただ私に視線を向けているだけで、何を考えているのかは読めない。「いえ、お願いします」そう答えると、部長は小さく頷いた。これから不倫をしようとしている男女とは思えないほど張り詰めた空気に、どこか現実味がない気がしていた、そのときだった。不意に、目の前から「それにしても……」と声が落ちる。それにしても、何だろう――そう思いながら、私はゆっくりと顔を上げた。「仕事のとき、よく身分を隠して普通に働いていたな」それは、家の仕事をするなり、働かなくてもよかったのではないか――そんな意味合いだろう。「そんな、いいものではないんですよ。お金があったって」自虐的な言葉がこぼれてしまい、私はハッとする。「すみません。こんな話……」慌てて謝罪すると、部長は初めてわずかに表情を歪めて、「悪い」と小さく呟いた。「あの時……俺に相談しなかったのは……」それは、結婚するのに想いを伝えるのは不誠実だから、迷惑だから――そんな言い訳はいくらでもある。けれど本当は、気持ちが伝わってしまって、冷たく拒否されるのが怖かった。そう、ただ怖かったのだ。これから起こる現実も、部長のそばにいられなくなることも。でも、そんなことを言っても今さらだ。「離婚……ができたら、きちんとお礼をして、目の前から消えますね。部長は、私が既婚者だって知らなかったことにしてくれればいいので」不倫をすれば、部長にも迷惑がかかる。だから、私が離婚のために騙した――そういう形にするのが、彼にとっては一番いいはずだ。私は自由さえ手に入ればいい。海外にでも行けばいい。それくらいのお金は残るだろうし、仕事だってできる。そう考えながら、私は彼に笑って見せた。不倫をするのなら、このまま部屋に来るのだろうか――そんなことを考えていたが、食事を終えたあと、部長は何も言わずに席を立
「夫、そして私の父も承知しないでしょうね。どんなことがあっても」「それはどうして?」ごもっともな言い分に、私は苦笑しつつ口を開く。「私のお金が目当てだから。離婚をしたら手に入らないでしょう?」アルコールのせいもあるのか、自嘲気味な言葉を発してしまったが、少しふわふわとした気分になってくる。「私はお金なんていらないから、とりあえず離婚したいんです」最後は本音が零れ落ちて、我に返る。「そんなことがあって、家を出てこのホテルに」最後は彼の問いの答えになっただろう。このホテルに来た理由は単純に家出だ。しばらく、沈黙が続く。「これからどうするつもりだ?」メインが運ばれてきたころ、そう尋ねられ私は「そうですね……」とつぶやいた。「家にバレないように弁護士の先生を雇って、家を借りて……でも、足がつくから、誰か男の人でも見つける? 私が浮気をしたら、不貞で離婚できますかね?」お酒の勢いというものは怖い。いつもなら絶対に考えないことが口をついた。でも、不倫相手を見つけて、自分の不貞でもなんでも、慰謝料を払ってでも離婚できればそれでいい気がしてきた。「そうすれば、住む場所も見つかるし一石二鳥ですかね? なんて……冗談……」少しおどけて言って見せた私だったが、まっすぐな部長の視線に笑顔をひっこめる。「じゃあ、俺と不倫すればいい」一瞬、意味が理解できなかった。「……え?」思わず間の抜けた声が出たが、部長は表情を変えないまま続ける。「証拠を作る。言い逃れできない形で。弁護士も俺が用意しよう」その言い方は、まるで仕事の提案のように冷静だった。「慰謝料は払うつもりはあるんだろ?」「それはもちろんそうですが……」慰謝料でもなんでも払ってでも離婚して、復讐をしたい。それはそうだが、部長を巻き込んでいいのだろうか。「……本気で言ってるんですか」問いかける声が、わずかに震えた。部長は迷わず頷く。「本気だ」短い一言。自分から提案したことだが、逃げ道がなくなる気がした。「嫌ならやめろ」淡々と続けられ、私はごくりと唾を飲み込んだ。ずっと憧れていて、好きだった人。その人と不倫――。相手としてはこれ以上ない人だ。でも、あの両親、夫と部長を関わらせれば、迷惑も掛かる……。「だが、一番早い」選択を委ねているようで、実際には突きつけられている気がした
部屋を片付けていると、背後で静かにドアが開く音がした。振り返らなくてもわかったのは、甘ったるい香水の匂いがしたからだ。あれからまだ十分もたっていないのに、もう急かしに来たのだろうか。「まだ終わってないわ」振り返らずにそう言うと、後ろでドアが閉まったのが分かった。仕方なく振り返ると、そこには美咲だけが立っていた。「恒一さんは?」別に興味はないがそう聞くと、美咲は「お風呂よ」と答えた。時間からして、食事をしてきたのかどうかもわからないが、こんなに早いとは思わなかったし、昼間の父の電話のこともあり、今日は作っていない。「へえ、確かにゲストルームよりこっちの部屋の方が広いわね」私の横を
仕方なくキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けると、中に並んでいる食材はどれも昨日までの自分が用意したものばかりであることに気づき、思わず小さく息を吐いた。当たり前だ。この家で食事を作ってきたのは、ずっと私だったのだから。私はいつも通りに味噌汁を火にかけ、卵を割り、焼き魚を用意した。出来上がった料理をトレイに乗せてダイニングへ運ぶと、リビングでソファに腰かけている恒一さんと、その隣に当然のように身を寄せる美咲の姿が目に入った。その距離の近さに、これが預かっている妹との距離かとため息が零れ落ちそうになる。「できたわ」それだけを告げて仕方がないので、自分も食べようと席に着こうとした時だった。「
やはりいつもと違う部屋だからか、昨日のことがあったからか……。遅くまで寝付けなかったこともあり、気づけばブラインドから明るい日差しが差し込んでいた。「どうしよう!!」朝食の準備が間に合わない、そう思った私だったが、不意に別に作ることはない、そう思った。今日は土曜日。恒一さんも会社は休みのはずだ。美咲が彼と一緒に夜を過ごしたのなら……。そこまで考えて小さく息を吐いて、ベッドを下りた。スーツケースの中から着やすいワンピースを選ぶと、それに袖を通す。ゲストルームということで洗面台もついたこの部屋にいて、むしろ良かった。そんなことを思いつつ支度を済ませた。美咲が現れる前は、夫婦なんて到
寝室を一緒に使おうがどうだろうが、この部屋にいるとまた何かを言われそうだと思った私は、家を出て行くことも考え、荷物をスーツケースに詰めていく。特に大した荷物もないし、とりあえず出て行ったとしても、母のお金を使わなくても働いていた頃の貯金もある。今まで盲目的に父の言うことは絶対で、そうしなければ継母にも怒られる――それがトラウマになっていたのかもしれない。普通に考えれば、こんな私にメリットのない結婚をする理由などないのだ。それ以外にも、この結婚をした理由はあるのだが……。しかし、離婚しようと私が言い出したところで、あの人たちが了承するとは思えない。私はそこで一息つくと、荷物を持って一







